東北震災地方状況レポート5月25日
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東北震災地方状況レポート5月25日

Posted on May 25, 2011
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japan earthquake and tsunami zone where Kozmoz is providing aid, may 20th 2011

東北の被災地の状況についての報告が遅くなってすみません。 私は前回の物資運搬で被災地に野菜を届けましたが、その疲れをいやしていたのです。

今回、バーニーと私はいつもと同様に日曜の夜だった出発の予定を変更し、火曜の夜に出発しました。 そのため、はじめから逆風の中での出発のように感じられました。 その日は朝からコストコに行って、帰りに友人のJayとコーヒーを飲む予定でした。 レインボーイングリッシュスクールの彼の生徒達が私たちのために再び燃料費を寄付して下さったのです。 私は申し訳なく思いました。 お金を頂いてすぐに彼のもとを去らなければいけなかったからです。 今度彼には少なくともエビスビール一箱でもおごって一緒に飲むつもりです。

京都のセンターに急いで帰り、なんとかトラックに燃料を補給してから、野菜を積み込むために大阪中央市場に向かいました。 野菜は吉里ゆきこさんに頂いた物です。 彼女は私が愛情をこめて「野菜のお姫様」と呼んでいる女性で、今回大変ありがたいことに新鮮な野菜を非常に安く売って頂きました。 彼女は間違いなく私が今までめぐり会う機会を得た販売員の中で最もチャーミングな方です。 そういえば以前宇治の生産者市場に行った時、彼らは私たちの京都センターの正面にあるスーパーで買うことができる値段よりもずっと高い価格を提示しました。 私には、彼らは今の事態を何とも思っていないように思われます。

コズモズ緊急物資運搬トラック(古い2トントラックの両側にロゴを張りつけただけの物ですが。。。)にビールを積んで、私たちは今回の旅に出発しました。 バーニーと私はこの2ヶ月間身を粉にして働きました。 この疲れが今回の旅で出たように思います。 私は4月に石巻から戻って来た日から続く咳にいまだに苦しめられていました。 その日石巻で、歴史上これ以上寒い日があったかと思われるくらい寒い夜をトラックの荷台で過ごしていたのです。 その夜は少しも目を開けていられないほど眠かったです。 バーニーは疲れきっているようでした。

私たちは、最初の目的地のある奥松島に向かう前の休憩として、福島で車外に出て2時間休憩しました。 その場所は、かつては日本で最も景観の美しい地域とされていた場所でした。 奥松島の半島は津波の猛威をまともに受けました。 3月11日、建物の2階の高さほどの津波が窓を破り、壁を壊しました。 最後には、すべての家屋、住人、そしてペットを流し去り、それらを丘に逆らって数キロメートル先の内陸に押し流しました。 その場所にはまるで材木と小枝以外に何もないように見えました。 私たちはボルトがむき出しになった家屋の土台の列を通り過ぎ、約500人が避難している縄文村に到着しました。 半島の先に大きな丘があるので、その村(実際には有史以前の日本をモチーフにしたテーマパークか地域博物館であるかに見えました。)では一握りの家屋が無事でした。 恐ろしい津波が丘にぶつかりその手前で二手に分かれて周囲に流れ、廃墟の中にオアシスを残したのです。 この場所のセンターは、東日本にある同種のセンターがそうなったのと同様に、一時的な避難所とされました。 避難所の代表者とスタッフたちは地域の住人約500人の世話人、カウンセラーとなりました。 二週間前に我々が野菜を積んでこの場所に来た時、これらの野菜は震災後約50日が経過して彼らが最初に口にした野菜でした。 この時、野菜以外の寄付も喜んで受け取って頂きました。

震災後60日以上が経過しても、なお電気は完全に復旧していません。 現場の職員が一生懸命に働き、村から1キロメートル周囲の電力は回復しました。 このペースでは、すべての電気の復旧は夏までかかるでしょう。 水道の復旧はまだ始まってすらいません。 被災者は1日1つの弁当と、おそらく寄付によるいくらかのパンのみを支給されています。 1日2食の満足な食事すらないのです。 今回、横浜の出前の会社が温かい食事を支給する支援団を派遣しました。 彼らはちゃんこ鍋を振る舞いました。 朝食抜きでずっと運転をしていたので、私たちも一杯頂きました。 残念で仕方なかったのは、その支援団が来たことを理由に、県がその日の弁当の支給を中止してしまったことです。 その避難所の被災者に温かいちゃんこ鍋と弁当の両方を食べさせてはいけなかったのでしょうか? 一日二食の食事は多分全く過剰ではないと思うのですが。

一週間前、私たちは京都の合気道場から寄付して頂いた靴をこの被災地に届けました。 今回、地域の方数人とお会いし、寄付した靴について感謝の言葉を頂きました。 その後、存在を忘れられて寄付が届かず、必要な物資が足りないという大鹿半島に向かいました。 彼らが少ない物資しか手にしていない理由は容易に理解できました。 それは、道路が非常に悪路であるからです。 地震によって道路が冠水したり隆起したりしていたため、到着に時間がかかりました。 もちろん、地震が起こった後、ほんの少ししか残っていない道路を何度も我々は通ってきています。 生い茂る木の木陰の中きついカーブの山道を進みましたが、まさしく山の頂上に着くまで避難所を目にすることは出来ませんでした。 事故を起こして野菜ジュース以外何も持たずに目的地に到着するのは望まなかったし、もちろんトラックで京都に帰りたかったので、15kmhで走行せざるを得なかったのです。

道中で、内海の景色は朝に見た物と全く同じでした。 すなわち、むき出しになった家屋の土台と建材のがれきが丘のふもとに打ち上げられていたのです。 数時間かけて私たちは目的地である丘の上にある中学校に到着しました。 その場所からはふもとの被害が一望できました。 その学校は現在周辺の避難所に避難している住人約3000人の人々のための物資配送センターとして機能していました。 私たちは不安そうな顔つきをした多くのボランティアから挨拶を頂きました。 そのうちの多くは手伝いに来ていた大学生でした。 はじめに私を驚かせたのは、3000人近くに食料を支給している彼らに与えられる物資の少なさでした。 また、ここでも野菜は見当たりませんでした。 わたしはセンターで二番目に偉い方とお話をしていました。 彼は市役所の新入りの事務職員から避難所の管理者になった方でした。 彼の話では、そのセンターの周辺では人々はご飯とみそ汁をほぼ以前私たちが訪れた他の避難所と同じ頻度で受け取っていました。 その場所の被災者も同様に一日一つの固形食料といくらかのお菓子を受け取っていました。 分った事は、彼らは私たちが考えていたほど忘れ去られてはいなかったという事でした。 しかし彼らは必要最低限の物を受け取っていません。 必要な量を受け取っていません。 これが私たちが訪れた避難所のすべてに共通する問題であるように思われます。 きっと私たちはまた救援物資を持ってここに戻ってきます。

丘を下るにも数時間がかかりました。 まだ私たちには向かうべき場所があり、トラックの3分の1には物資が積まれていました。 最後の目的地である仙台に向かう途中、私たちは石巻を通過しました。 私はこの場所の恐ろしい光景を以前にも見ていましたが、驚いたことに約3ヶ月が経過しているにもかかわらずこの光景は変わっていませんでした。 死の匂いがどんよりと漂い、悪臭はほとんど耐えられないほどでした。 多くの店舗は未だに車やがれきによって押し壊されていました。 津波による破壊を免れた新築家屋は押し流されて堆積していました。 すべての景色がどれほどめちゃくちゃで非現実的に映ったかを言い表すことはできません。 約10000人の方々が行方不明であり、ほとんどの土地が清掃されておらず、加えて大量の魚やその他の海洋生物が堆積している場所の匂いをご想像ください。 その場所の真ん中を、生徒は学校へ向かって歩き、おばあちゃんはカゴを手に滅多に開かない市場に向かうのです。 いくつかの店は清掃されており、そこで売り上げを出そうとしていますが、商品棚のほとんどは空のままです。 私の心に焼き付いている光景があります。 それは一階がひどく破壊された家の光景です。 家族は二階で生活しているのでしょう。 その家の前にがれきに囲まれたわびしい机があって、そこで子どもが一人で勉強しているのです。 まわりにはひっくり返った車が散乱していました。。。。 震災からもうすぐ3ヶ月ですが、これが社会として私たちに出来る最大限のことなのでしょうか? ひとりひとりが自分に何が出来るかを自らに問いかけましょう。

最後の目的地はに見舞われた仙台にあるとある支援団体です。 信じがたいほどの荒廃、器物の損壊、死者数。 経済的損害が痛感されるのはまだ先です。 平均的な低収入家庭には0?4ヶ月生活できるだけの貯金しかありません。 ごく一部の中流階級もしくは上流階級の家庭のみが6ヶ月以上生活できるだけの貯金を有しています。 このことが意味するのは、今回の災害が今後数ヶ月間の人々の生活に特に大きな経済的打撃を与えるということです。 今回の津波で多くの人々が家を失ったため、彼らはすぐに家賃が支払えなくなり、ホームレスになるでしょう。 政府は救援を確約したきりでそれ以降この問題に言及してすらいません。 赤十字はまだ福祉事業を始めていません。 今回支援に向かった団体や、現在結成されつつある他の団体はこの問題について言及しようと試みています。 一次被災者のみならず、二次被災者に対しても食料支援と長期間の住宅支援が必要となるでしょう。 この問題は数ヶ月間で確定されるような問題ではなく、実際に恐らく最悪の事態はまだきていません。 そのため私は、これまで愛を持って被災者を救って下さった方々に、まだ我々のやるべき事がたくさんあるということを理解して欲しいと思います。 被災者の方々が彼ら自身の力で復興をなせるようにするために、時間を下さる方、お金を寄付して下さる方が必要です。 彼らが自身の力で復興を成し遂げるため、また経済の暴走に彼らがたやすく飲みこまれ、再び落胆してしまうことのないようにするために。

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